昭和43年7月29日      夜の御理解



 今日、敬親会がございました。お年寄りばっかりの信心共励会です。もう家の、ここの共励、敬親会に感心することは沢山の人が集まるというだけではなくてあの、時間励行をする事ですね。もう時間には、ほとんどの方が集まって、そして共励が出来るように、ちゃんとお茶菓子なんかの準備をしてこられて、そしてもう時間の経つのを忘れて話し合われるんですね。
 けれども私その、今日は敬親会の方達にお話をさせて頂きながら感じたことですけれども、やっぱり何と言うても信心は若い中に頂いておかなきゃならないということでございます。いわゆる信心には若さがなければならない。
 例えば、あのその敬親会の中にもやはりお日参り組なんかがやっぱあるんですよ。例えばあの佐田のおばあちゃんなんかはそうなんですけれども、これはね、年じゃなくてから信心に若さがあるです。
 いわゆるその信心が若いかどうか何ですよ。ね、だから年、若かってもやはりもう信心が年をとっておるという人もあるかもしれませんよね。だからその、本当にこの若々しさというかね、いわゆるこの、エネルギッシュなとでも言うかね。もうそういう信心には、若さがどうでも必要である。
 いわば、若い者でもかなわんといったようなことを申しますが、年寄りでも、そういう人もやっぱあります。まぁそういう方達が点々おられるために、その敬親会もまぁある意味で生き生きといたしておりますけれども、ほとんどの人はやはりそうではない。
 今日私塗板に書きましてね、少しおばあちゃん達に勉強してもらろう、と言うてからあそこへ「御祈念成就」「大願成就」という事についてお話をしたんです。皆さんが、今日あの夏期修行の丁度時間が一緒になりましたから、参加しておられます。
 そして、その先唱の先生が、マイクを握って。そして一生懸命にあの大祓いを上げて御祈念をさせてもらう。そして御祈念の合間には、御祈念成就、御祈念成就、御祈念成就ということを一生懸命繰り返し願うでしょうが。
 ここに沢山の人達が集まってきて、様々な問題、難儀を抱えておる。そういうような、また一人ひとりの願いというものがない者はない。そういう願いが本当に成就していく事のために、あぁしてこの、もう暑い中にね、毎日修行が繰り返されておるのです。
 ですから、皆さんがあの御祈念がね、銘々の御祈念が成就することのためにも、例えば、それを受け止めれる心というものがなからなきゃいけません。ためにはね、一つ大願を持たなきゃいけん。大きな願いを。
 私も大きな願いを持っておる。というて私の話をするんです。ね、私が日本一の先生になりたいとか。日本一の教会を造りたいとか。そういうようなことは、まぁいうたら滑稽でしょう。何故って私が日本一の先生になれるはずがないもん。
 それは丁度子供の時に、僕は大きくなったら総理大臣になるというのと同じことであって。お前ぐらいな頭じゃお前日本一になれるはずがないじゃないか。お前ぐらいな器量で。ね、日本一になれるはずがないじゃないか、日本一の教会を建てれるはずがないじゃないかと言うて笑われる。
 本当にそれは滑稽なことでしょうけれどもね、これは誰でも、日本一を目指しても可笑しくもなからなければ、又それに向って進んで行けれる、いわゆる馬鹿でも(ちょい?)でも、これならばこういう大きな願いが持てれる。
 それはね、私はもう日本一有り難い私になりたいと思うておるということ。だからせめて、ね、皆さんもね、皆さんもせめて、家の中では家のおばあちゃんが一番有り難そうにしてござる、有り難いものを持っておられると。村内では町内では、あっちのおばあちゃんは本当に有り難ばあさんだと言われるくらいにね、そういう願いを持ちなさい。
 ね、まぁいうならば老い先短い。ね、まぁこれは、若いとか、年をとったからというて、ね、それは寿命のことはあてにはなりませんけれども、ね、年の順からいうなら、やはりお年寄りの方達はもう、私共よりも、死に対するところの考えというものは、やはり特別に強く持っておるわけなのである。
 それでね、あの世にも持っていかれる。この世にも残しておけるというのはね、その有り難いというものだけなんですよ。というてまぁ私は力説をしたんですけれどもね、それがあんまり響いて返ってこない。ただもうあの、昼の御祈念を一緒に頂いて、確かに先生があの御祈念成就、御祈念成就、御祈念成就というて、願って下さる時には、非常に感動したっというんですね皆。
 あの、そのやっぱ熱気に触れて感動する。けども今更大願を立てようなどというような気持ちがないのじゃないだろうか。ね、だから私は今日、皆さんにも申しあげますように、信心は何というても若い中だと。
 けれども、どんなに子供の時から信心しておりましてもですね、ただそういう大願を持たない。神様の心にかなうような大きな願いを持たない。そしてその願いに向って邁進していこうという、その元気な心がないなら、こりゃ同じ事。一生かかったって何もならん。得るものはない。
 大願を立て、その大願に向って自分が、ね、まぁ倒れ転びではあっても、それに向って進んでいっておるということでなからなきゃならんです。
 その後に、お話を聞いてみたんですけれどもね。もう別に他ん願いはなかっち言われるです。ね、もうとにかく、死ぬる時にね、病気せんなころっと死ぬる。それだけが願いち。皆もほんなこっですもんのちそれに、強調するようなことを言われるんです。
 まぁ私はだから仕方がないけれども、そげなこと言わずにね、お互いがね、あのテレビでやっとるような意地悪ばあさんのような根性が心の中にありゃせんかと。嫁御が右ちいや、ちゃっち左ちいわにゃできんごたるばばさんがおらんか。
 息子が母と親切に言うてくれても、そげなもんないらんばのというて跳ね除けるようなおばあさんはおらんか。せめてね、そういう意地悪な心が人間の心の中に誰しもあるんだけれども、そういうものが信心によってですね、やはり取り除かれていくためには、有り難くなる稽古。
 はーこげなこつどんいよったっちゃ、こげなこつどん思いよったっちゃ、有り難ばあさんにはならんぞという風なところぐらいな事は、いっちょ身に付けていかにゃいけませんよ。合楽に通う値打ちがないです。というて私は今日は話したことでございますけれどもね。
 お互いこれは年寄りのことだけじゃありません。お互いの信心に果たして若さを持っておるかどうか。しかもその若さがです、神様に打ち向かう迫力になっておるかどうか。大願を立てて、その大願に向って御祈念が成就する事のために、一心にその修行が出来ておるか。
 ただ願う、頼むというだけのこっちゃない。その大願が成就するためには、こういうような思い方、こういうような生き方では、とそれを改まっていかなければならない。もう60年も70年も、ね、いわばこびり付いて来た根性の中にあるその意地というかね、いうなら、人に愛されないもの。そういうようなものがですね、根性の中にちゃんともう染み込んでいる。
 それこそ、もう骨にまで染み込んどる。そんな感じがする。ね、それを私共、なら若い者はですね、こういうおかげを頂かなければならん。それではこういうものがあってはと、そのことに対していうならば、死にもの狂い。
 ね、改まることに、そのことのために一生懸命になれる。ね、抜けないはずの、例えばものが抜ける。改まれないものが、改まられる。そういう私はあのおかげをね、その願えるのもやはり若い中だと思うんですよ。
 お互い若い中に、ご神縁を頂いて、しかも大願成就のために日々信心の稽古をしておるということを有り難しと。そのためにはどげな修行でんいたします。その事が成就する事のためなら、改まりもします、磨きもします、修行もします。
 そういう私は、意気がね、そういう迫力、迫るようなもの、神様へ。そういうものが出るのもやはり若い時だと。その若さをいよいよ生かした信心にならなければいけないと思うですね。どうぞ。

梶原 佳行